【2】(仮)平均的な僕と平均以下の君たち 第2章 山の中の出会い~凪ととある施設

【1】(仮)平均的な僕と平均以下の君たち あらすじ~ 第1章

第2章

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山の中の出会い

登山ブームなんていうものもあったが、山を登る理由は人それぞれであり、楽しみ方も様々なのだ。より高い山に登りたいという人もいれば、健康のために低い山を毎日登る人もいるし、黙々と一人で登る人もいれば、山頂で皆で山ご飯をしたくて登る人もいる。

僕は日帰りできる山に行き、きれいな景色を写真に収めながら、山頂でコーヒーを飲んで、帰りにお風呂に入って疲れを癒す。そこには多くの楽しみがある。登山という行為の中に、運動・カメラ・コーヒー・お風呂…それぞれ単体でも楽しめる趣味を詰め込むことができる。

転職してたった半年くらいだが、時間と心に余裕ができた僕は気が付けば様々な趣味ができていた。どれもお金がかかるのはネックだが、新卒から3年間休みなく働いてきたご褒美だと思って色々と初めてみた。

そして今日は都内から日帰りで行けるけれど、比較的高めの山に向かう。ちなみに今日は平日だ。付いたばかりの有給も自由に使わせてくれる会社でありがたい限りだ。弁当屋時代とはまるで違う。

人気の山だと休日は特に混み合うので平日に行けるのは嬉しい。ちなみに世界一登山客が多いといわれる東京・高尾山は僕もよく行くが平日だって結構混雑している。

朝7時前、欠伸をしながらJR中央線の立川駅ホームで電車を待つ。多摩地域の中でも中心的な都市である立川市の立川駅、まだ混雑はしていないもののあと30分もしてくると登りは人が増え、新宿駅手前にもなればすし詰めになることもある。そんな状況を憂いながら僕は下り電車で大月まで向かい、そこから富士急行に乗り換えて『三つ峠駅』まで向かう。

今日行く山は駅名にもある通り山梨県にある『三つ峠』だ。標高1,785mある中級者向けの山ではあるが、登山コースによっても難易度は変わってくる。山のいいところは、時期によって景色は変わるし、登るルートによっても楽しみが違うところだ。三つ峠に登るのは2回目なのだが前回は河口湖駅から登った。今回は交通費の節約も兼ねて三つ峠駅から登り、往復することにした。

今回の目標は、”身体を多く動かすこと”、”紅葉と富士山の写真を撮ること”、”山頂コーヒー&ラーメンを楽しむこと”、”最後にお風呂を楽しむこと”の4つだ。特に三つ峠を登る魅力は富士山がよく見えることだ。いずれ富士山にも登ってはみたいが、日帰りできないし富士山も人が多い。今の僕にとってこのくらいの山が一番楽しめる山だ。ちなみに一人で登るのが好きだ。

8時半ごろ、三つ峠駅に到着。降りた人は同じく登山客であろう格好をしたおじさんが一人だけだった。自然とテンションが上がってくる。木造の駅舎もかわいらしい雰囲気があり好みだ。

早速カメラに収めつつ、登山道に向かう道を進みます。この道中にも大きく富士山が見える絶景ポイントもあり、本当に富士山に近いんだなということを実感しながらまたカメラを構える。道中楽しみながら『三つ峠グリーンセンター』というお風呂もある施設を横目に登山道へと入っていく。帰りにここで疲れた身体を癒して帰るのだ。すでにワクワクしてくる。

ここには車で来た感じの登山客が一組いた。車があると便利だけど、それなりの山に登った後運転して帰る元気が自分にあるかは別問題だ。

山頂までは3時間ほどの道のり。すでに紅色した葉っぱたちが気分をさらに上げてくれる。犬の散歩をしている地元っぽい人とすれ違いつつほとんど一人で登っていく。舗装された道を抜けていくとどんどん山道らしくなり、そして中々ハードな道のりに息が切れ始める。しかし、上を向けば紅と緑と黄色が混ざった木々が生い茂り、その間からの木漏れ日がきれい。天気も良くて最高の登山日和に元気をもらいながら足を止めずに進んでいく。

途中、富士山ポイントを楽しみながら、『馬返し』という地点に到着。昔はこんなところまで馬で登ってきたらしいが、「ここからは馬では登れませんよ」という字の通りの意味で「馬は返してあとは徒歩で登ろうね」という地点である。それは良いのだが、ここで初めて人に遭遇した。

ベンチもあり休憩地点にもなる場所なので人がいることは不思議ではないのだが、ベンチでぐったりしている。女性のようだが一人で頭を下げたままでこちらに気が付いているのかどうかもわからないが、ハァハァ息遣いはしている。

「生きていはいるな…」

生存確認をした上で、声をかけるべきか悩んだが落ち着いたら引き返してもいいわけだし、馬だって帰るところだし、ベテランそうな登山客も後ろにはいそうだし…と納得させる理由を並べつつ、もう一声自分を納得させるために行動食用に持っていたチョコレートを横に置いて先に進むことにした。

馬が返る場所だけあって、ここからかなりハードな道のりになる。「山道危険」なんていう看板もあったり、岩場があったり、崖があったり、初心者には厳しいコースだ。初めて登る道だったがちょっとビビる。少なくても登山靴などきちんとした準備はしておいた方がいい。

息も絶え絶えでさすがに立ち止まりつつ、景色に目をやり深く深呼吸。富士山も見える。きついのだがとても楽しい。疲れているのに癒される。これが登山の魅力だ。

クライミングしている人を眺めながら、山頂に近づいてくるとちらほら人の姿が見えてくる。結構高齢そうな方々も多く、僕は同い年になったときにこんな山登れるのだろうかと考えると尊敬する。追い抜くほどの力もなく順番に道を歩いていく。「最後がきついのよね」なんて知らないおばちゃんに声を掛けられつつ、すれ違えないくらい細い道を登っていく。そして山荘まで着くと一気に開けた場所に出た。

「おぉー…」疲れと絶景が合わさるとこんな声が出ます。

見晴らしがよく富士山も大きく見えてめちゃくちゃ気持ちがいい。2回目だけど天気もいいし紅葉もきれいだし、感動は薄れるどころか増している。他のルートから登ってきた人もいるようで、10人くらいは登山客の姿が見えた。もう少し進んだところに山頂があるのでゆっくり景色を楽しみつつ向かうと、山頂にはすでに多くの人がおり代わる代わる山頂の石碑と富士山をバッグに写真を撮って楽しんでいた。

「お兄ちゃん、カメラ!」

急に声をかけられて驚いて振り返ると、最後一緒に登ってきたおばちゃんが半ば強引に僕のカメラを手に取ると、石碑と富士山をバッグに撮ってくれた。ちょっと斜めっていたけど良い思い出だ。

山ならではの出会いも楽しみつつ、山頂は狭いので先ほどの開けた場所に戻りベンチで待望の山ご飯を楽しむことにする。とはいってもとっても簡単。バーナーでお湯を沸かし、カップ麺にお湯を注ぐ。ちなみにシーフード味だ。3分待つ前に「ズズッ」と頂いてしまう。これがうまい。いつものカップ麺が格別なものに変わる。

そして山ではスープは捨てられないので飲み干すしかないのだが、コッヘルにコンビニで買った鮭おにぎりを海苔は巻かずに入れて少し焼く。そこに余ったシーフードスープを入れてしばらく煮詰める。スープが少なくなったら、おにぎりの海苔を破って散りばめる。シーフードリゾット風の完成!

「うまそう…たまご持ってくればよかったな…」

なんて次回への反省と改善を述べつつ、目の前のリゾットを頬張ろうとしたその瞬間。

「ガサッ!!」

目の前で人が倒れた。

リゾット作りに夢中で気が付かなかったが、本当に僕の目の前で人が倒れおり一瞬フリーズしたが、我に返り駆け寄り声をかける。

「大丈夫ですか!?」

と声をかけながら抱え上げる。細身の身体は軽く簡単に持ち上がり驚いた。僕よりも若そうな女性で、とても色白な肌はきれいだったが登山とは無縁にも思えた。「なぜこんな人が…」と疑問に思ったが、どこか見覚えがある服装で、ポケットから落ちそうになっているのは『馬返し』で僕が置いてきたチョコレートの包みだ。

「あの時の!?」

まさかあの状態でここまで登ってきたのか?あの時はよく見ていなくて気が付かなかったが、普通のTシャツに短パン、足元はスニーカー、カバンはリュックでもなく小さなショルダーバッグをかけていた。さすがにこの山を登ってくるような服装ではなかった。幸いチョコレートは食べてくれていたみたいだが、昼を過ぎれば気温は下がるし山頂は冷えてくる。

僕は持っていたレインウェアを被せてベンチに座らせる。重い足取りながら腰を上げてくれた女性は「ありがとうございます…」とか細い声で感謝を伝えてきた。

「生きてはいるな…」デジャブのような生存確認を同じ人に行う。

「お水飲めますか?」

僕の問いかけに頷いてペットボトルを手にすると一気に飲み干した。カップ麺に使っただけで半分ほど残っていた水が一瞬にしてなくなった。おそらく飲み物もまともに持ってきていなかったのだろう。ようやく生気を取り戻した女性は目の前にいる僕とようやく目が合った。

「タキサン…!!??」

そう叫びいきなり立ち上がった女性は立ち眩みを起こしたのかまた倒れそうになる。慌てて支えてまた座らせる僕。大人しくしておいてほしいものだ。それに”タキサン”ってなんだ。酸っぱいの?と見当違いな思考を巡らせていると「ぐぅ~~」というまた予想外の音が鳴り響いた。…大人しくしておいてほしい。

もちろん女性の腹の虫がなったわけだ。さすがに恥ずかしかったのか僕の顔を見て真っ赤になる顔は…悪くはなかった。よく見れば若いけれど色白美人さんだ。事情を聞くにも腹ごしらえは重要ということで、さっき出来上がったシーフードリゾット風を惜しみつつ差し出してみる。

「これ食べれますか?」

僕の問いかけに「いいんですか!?」とまるで子犬のようにキラキラした目で答える女性…悪くはない。ラーメンのスープで作ったリゾットをおいしそうにかきこむ姿は本当に子犬みたいだった。メインディッシュを失った僕はコーヒーを入れながら子犬を眺めていた。

「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。」

食べ終わると急に人が変わったように女性らしい雰囲気に変わる。

「子犬が…」

「子犬?」

「いや、なんでもないです。それより大丈夫ですか?」

不思議な気持ちなのはこっちのほうなのだ。なぜこんな装備で山に来ているのかもわからないし、山を舐めていると言えばそれまでで、はっきり言って自殺行為だ。

「はい、だいぶ落ち着きました。本当にありがとうございました。そしてご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。」

丁寧に答える女性にとりあえず安心した僕はコーヒーに砂糖を3本投入。

「甘党なんですね…」

「いや、甘いのは好きですが、コーヒーはブラック派です。どうぞ。」

僕は淡々と砂糖3本入りコーヒーにミルクも入れて女性に差し出す。

「えっ…ありがとうございます。。でも私もブラックでも飲めますが…」

困惑する女性だったが、別にコーヒーをおいしく飲んでほしいわけじゃない。

「多分ガス欠です。糖分しっかり摂ってください。帰りもあるんですから。そもそもなんでこんな格好で山に来たんですか?死にますよ?」

いわゆるハンガーノック状態になっていた女性に、ついつい本音が出てしまった。しかし、間違ってはいない。日帰りできる山とはいえ一歩間違えれば大事故にもつながる。

「すみませんでした。少し想い入れのある場所だったので登ってみたくて。でもこんなに大変だとは思わなかったんです。途中で引き返そうかと思ったんですが、誰かがチョコレートをくださったみたいで…応援してくださる人がいるから頑張るしかないと思ってしまって…」

…。僕のせいかーーーー!!

まさかあの行動が裏目に出てしまうとは思わなかった。そんな前向きに捉えてくれるなんて…急に申し訳なくなる。

「あーあのー…そのー、あのチョコレート置いたの僕です…。あの時ちゃんとお声掛けしておけばよかったです。そうすればこの状態で登らせることもなかったし、申し訳なかったです。」

後悔が襲う。山は危険だと言いながら、危ない状態の人を放置したのだから、僕も山を舐めていたかもしれない。

「そんなことないです!私がきちんと調べもせずに来ただけですし、実際こうやって助けてくださったわけですから、お兄さんは命の恩人です!悪いのは私です!」

放置したのに命の恩人とは…。しかし引っかかることもある。

「でも、想い入れのある山なのに登ってみたいっていうのはどういうこと?来た事あるってことじゃないの?あと、さっき僕を見てタキサンって言ってたけど何のこと?一緒に来ていた人いたの?」

他にも気になることはたくさんある。そもそもどこの誰なのか何をしているのかもわからない。女性はゆっくり考えながら話し始めた。

「はい、この山は来たことがあるんですが、来たことがないんです。そもそも山に登ったのは初めてです。今日は一人で来ましたし、”瀧さん”っていうのは知り合いの人の名前で、お兄さんに似ていて思わず口にしてしまったのです。失礼しました。」

えーっと。最初何言ってるかわからない。やっぱり不思議な子なのかもしれないという表情をしていると、それを読み取ったかのように話をしてくれた。

「あの、私の名前は水樹凪(みずきなぎ)っていいます。今19歳なんですが、訳あって今は何もしていません。とある施設に入って生活している感じです。」

とある施設…。やっぱり何か障害のようなものを持っているのだろうか?食事をして落ち着いた後からはもう普通の女の子にも見える。しかし、19歳いう割には少し幼い感じもするし、ピクニック感覚で一人でこんな登山をするのも注意力がないとしか言えない。

「あの…お兄さんは一人できたんですか…?」

考えを巡らせて黙っている僕に彼女は恐る恐る訪ねてくる。少しおびえたような表情に我に返った。

「ごめん、ごめん。僕の名前は茅野凛平(かやのりんぺい)。もう26歳のアラサーです。今日は一人で来てるし、三つ峠に登るのは2回目だよ。」

できるだけ優しく答えてみた。

「茅野凛平さん…アラサー…2回目…。アラサーっていくつからアラサーなんですかね?個人的には28くらいになったらアラサーって感じがするんですけどね。」

よくわからないところで引っかかる彼女。やっぱり不思議な子なのかもしれない。

「えっと…水樹さん。アラサーの定義はいいんだけど、もう動けそう?そろそろ下山しないと寒くなるし暗くなって危険だから。」

気が付けばもう14時前。秋の山はまだまだ冷えてくる。気が付けば周りの登山客はいなくなっていた。

「一緒に来てくださるんですか?」

ここまで面倒見させておいて僕が置いていくような薄情者に見えたのだろうか…。

「もちろん。さすがに置いていけないでしょ。」

そう言うと彼女はまた子犬のように笑顔になった。うん、かわいい。

「ありがとうございます!動けます!あと、水樹じゃなくて凪がいいです!」

ずいぶん元気になった彼女は、呼び方まで指定してきた。中々初対面の男に名前で呼んでと言うのもあまりないよなと思いながら、凪は続ける。

「凛平さん…りんさん…凜さん?…凜くんは年上だし馴れ馴れしいか…凜ちゃん!うん、凜ちゃんって呼んでいいですか!?」

凜くんと凜ちゃんの間にどれほどの馴れ馴れしさの差があるのだろうか。字面だけ見たら完全に女の子だけれども、変にかしこまられるよりは気軽でいいかもしれない。

「別にいいよ。凪…ちゃん。じゃあ行こうか。きつくなったらすぐ行ってね。」

会ったばかりのもう19歳の女性に「ちゃん」付けで呼ぶのもどうかと思いつつ、向こうが「ちゃん」で年上のこちらが「さん」というのも変な気がした。それを聞いた凪の顔は一瞬きょとんとした後、また明るくなった。

「はい!頑張ります!」

さっきの表情は何だったのか気になったが、元気そうなのでほっとした。とりあえず下山まであと3時間近くはかかる。一人ならもっと早く降りられるが、今の凪と一緒では時間がかかるのは間違えない。本当は来た道を戻って三つ峠グリーンセンターでお風呂に入りたいところだったが、比較的緩やかな道を歩けるコースで帰ることにした。前回登ってきたロープウェイも乗れる人気のコースだ。他にもルートはあったと思うが一度歩いたことがある道だし安心感がある。

凪にもそれを伝えると「ロープウェイ楽しみです!」とニコニコしていたが、そこまでの道のりが長い。さすがにすでに体力も限界だったのだと思う。すぐに凪は無言になり歩くのに必死だった。色々聞きたいことあったが、話せるような状況ではない。小刻みに休憩を挟みながら着実に歩みを進める。ポニーテールに結んだきれいな長い黒髪が揺れ、色白の肌ににじむ汗が光に反射して少し幻想的にも見えた。

そしてついにロープウェイのある富士見台駅に着いた。名前の通り富士山が一望できる絶景が広がるのだが、凪はすでに限界がきているようでこの絶景を見ている余裕もなさそうだった。少し休んでロープウェイに乗る。河口湖も一望できて日も沈んできており夕日がきれいだったが、気が付く凪は眠ってしまっていた。ずっとしまっていたカメラを取り出しシャッターを切る。

きれいな横顔と湖に反射する夕日が最高に美しかった。

それから、凪は疲れ切ってほとんど寝ていた。そもそもどこに住んでいるのか聞いていなかったが、寝ぼけた凪に何とか聞き出すと立川市だというから驚いた。今朝僕が電車を待っていた場所でもあるが、何を隠そう僕も立川に住んでいる。山梨県にある山の中で遭遇した女の子と住んでいる場所まで同じとは思わなかった。

今朝とは逆のルートで立川に向かう。その間も凪はずっと寝ていたから、乗り換えのときは苦労した。何とか立川駅に着いた頃には目を覚まし、すでに筋肉痛になった身体を必死に動かしながら改札を出た。帰宅ラッシュの立川駅は多くの人で溢れている。凪は筋肉痛の痛みを忘れたかのようにギュッと僕の腕を掴んでいた。少し痛いくらいだった。

「大丈夫?」

駅に着いた頃から凪は明らかに表情が硬く少し青ざめているようにも見えた。人の多さに面食らうことはあるが、普段から住んでいる場所ならさすがに慣れたものだろう。少し違和感を感じたが、人の少ない場所に移動すると凪はスマホでどこかに連絡していた。

「はい、すみません。大丈夫です。ありがとうございます。」

家族?ではないか、とある施設に入っていると言っていたし、そこの人だろう。

「瀧さ…。凜ちゃん、今日は本当にありがとうございました。ここで大丈夫です。」

“瀧さん”とやらはそんなに僕と似ているのだろうか?

「本当に大丈夫?」

「大丈夫です。迎えが来てくれるので。それにこれ以上迷惑をおかけするわけにはいかないです。」

一緒に待って説明した方がいいようにも思ったが、凪は少なくても一般の家庭の子とは違うようだし、関わってほしくないこともあるのかもしれない。

「わかった。これからは無理しないようにね。気を付けてね。」

「はい、ありがとうございました。」

「じゃあ。」

不思議な出会いだった。もう会うことはないだろうけど、凪の姿は鮮明に僕の脳裏に焼き付いた。

凪ととある施設

三つ峠で凪と出会ってもう2週間が過ぎようとしていた休日。撮りためた写真の整理をしていると、あの時ロープウェイで撮った写真に目が留まる。我ながらいい写真だと思う。

凪は今どうしているのだろう。立川のとある施設とはどこのことだろう。カッコつけて帰ったけれど、連絡先くらい聞いてもバチは当たらなかったのではないだろうか。

「ブーブー」女々しいことを考えていたら電話が鳴った。

「え?社長?」今の会社の社長ではない、弁当屋の時の社長だ。辞めたとき以来連絡もしていなかったが何だろうか。恐る恐る電話に出ると相変わらずの威勢のいい声で話してくる。

「おお、茅野!元気にしてるか?」

「お久しぶりです、社長。何とかやってます。どうされたんですか?」

「お前にお客さんだ!3号店に居るからこい!!」

「えぇ?誰です…」尋ねる間もなく電話が切れた。「何なんだよ…」僕にお客さんってどうゆうことだ?昔の常連さん?考えてもわからないので、暇だし行ってみることにした。

久しぶりのお店に着く。辞めてから一度も来ていなかった。半年前まで毎日来ていたお店だが少し緊張する。

「あっ、店長!お久しぶりです!」以前からいるバイトの女の子だ。まだ続けてくれていたんだと少し安心した。中に入ると社長も居た。そしてその隣にはスーツ姿のキリっとした女性もいた。こんな弁当屋には似使わないキャリアウーマンという感じだ。

「茅野、久しぶりだな、遅いぞ!」

「ご無沙汰しています、社長。元気そうで何よりです。」

「お前が辞めたせいで大変だぜ!ははっ。それより茅野、お客さんだ。こんな美人さんとどこで知り合ったんだよ!」

もうただの変態おやじと変わらない。そんなことより僕はこの人を知らない。

「茅野さん、突然お呼び立てしてしまい誠に申し訳ございません。私こういうものです。」

女性が差し出した名刺には”HK支援センター精神研究所 室長 夏目真希”と書かれている。「えいちけー…」聞いたこともないが、まだ若そうなのに何だか凄そうな肩書が付いている。とりあえず僕はこの人を知らない。

「夏目真希(なつめまき)と申します。先日うちの水樹凪がお世話になりました。」

「凪ちゃん??」

思わず大きな声を出してしまった。これ以上はお店の迷惑になりそうだったので、ニヤニヤしている社長に礼を言いつつ喫茶店に場所を移した。

「凪ちゃんはそちらの研究所?にいるんですか?」

「はい、正確には凪は併設している支援センターで預かっている子です。児童養護施設みたいなものですが、うちの特徴はいわゆる”ひきこもり”と呼ばれる子たちが中心であることです。」

「ひきこもり?凪ちゃんがですか?んーご存じだと思いますが僕が凪ちゃんとあったのは山ですよ。しかもここから2時間以上電車を乗り継いでいかないといけない場所です。とてもひきこもりとは思えないですけどね。」

確かに少し不思議なところはあったが、気さくに「凛ちゃん」なんて呼んでくる子が引きこもりと言われると違和感がある。

「もちろん、凪はかなり改善しています。一人で外に行くこともできます。ひきこもりという言葉を聞くと家に閉じこもって出てこられないといった印象を持ちがちですが、そうではありません。厚生労働省でも”仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態”を”ひきこもり”と定義していますが、外出を全くしないというよりは社会的な活動をしていないという状態を指しています。」

「はぁ。それってニートと違うんですか?」

「そうですね。厳密にはひきこもりとニートは引き離せるものではありません。ただ私たちのいう”ひきこもり”は、何らかの原因で精神的な障害を抱えて社会に出られない子たちのことをいいます。その子たちを社会に出られるように支援するのが目的です。特にうちにいる子たちは家族とも上手くいかず、行き場のない子が多いんです。」

正直ピンとくるようなこないような感じだったが、怠惰なだけで働けるのに働きもしていないニートとは違うってことなのだろうな。僕の頭で理解するにはこれが限界だ。

「茅野さん、よろしければこれからうちの研究所にお越しになりませんか?凪も喜ぶと思います。」

僕が行って何になるんだろう。しかし、凪には会いたいと思うのも事実。せっかくなので行かせてもらうことにした。真希の車に乗せてもらい研究所に向かう。

「というか夏目さん大事なこと聞き忘れてたんですが、何で僕のことわかったんですか?」

「凪が名前を教えてくれたので、ネットで検索してみたらすぐ出てきましたよ。お弁当屋さんのホームページに店長さんって出ていたのでもしかしたらと思って伺ってみたのです。お辞めになっているとは思いませんでしたが、社長さんが親切で助かりました。」

そう言えばホームページ作ってたな。辞めた人間店長のまま掲載してんじゃねーよ。ちょっとイライラしていると15分ほどで到着した。中心地からは離れており開けた場所だ。研究所というからどんな場所かと思っていたら、3階建てほどのこじんまりとした建物だった。

「こちらです。1階と2階が支援センターの施設になっています。3階が私の研究室です。とは言っても研究室にいるのはほとんど私だけですけれども。大きな施設ではありませんが、義務教育を終えた比較的年齢が高い子が多いのが特徴ですね。よくある児童養護施設と比べるとちょっと異質かもしれませんね。」

真希は色々話をしてくれるが、26年生きてきて僕自身こういう施設をちゃんと見たことがあるわけでもないし、何が普通なのかもわからない。情けない限りだが、凪のように一人で表に出て活動で来ているなら意味はあるのかもしれない。

「凪ちゃんってもう19歳ですよね。いつここに来たんですか?そもそも原因は…?」

「凪がこの施設に入ったのは高校2年の時です。元々父親は若くして大手メーカーの常務を務めていたほどのエリート、母親は専業主婦と恵まれた家庭だったと言えますね。」

「羨ましい限り…ならどうして凪はここに?」

話しながら通された部屋はテーブルとパソコンが一つある程度のすっきりした小さな会議室だった。真希が入れてくれたコーヒーの香りが広がる。

「若くして出世したおごりが出たんでしょうね。まだ凪も中学生の頃、凪の父親は部下に対して厳しい態度を取るようになって、見かねた同期の社員が忠告したそうなんです。それが気に入らなかったのか凪の父親は自分の業務のミスをすべてその社員に押し付けたんです。そしてその社員は地方に左遷されました。」

何だかありがちな話だが、大手は大手で怖いものだと感じながら弁当屋の社長の顔を思い出す。社長に直接文句を言っていた社員は僕です。

「確かにひどい話ですけど、それと凪がひきこもりになったことと関係あるんですか?」

「その同期の社員にも凪と同い年の娘がいたんです。その子と凪は小中と同じ学校で親友だったんですよ。父親通しも同期なだけあって家族ぐるみでも親交があったそうなんです。」

なるほど、なんとなく読めてきた。

「そして、凪の母親が亡くなったのです。」

「はい??」

全然読めてないよ。今の流れから言っても、そのせいで親友からいじめを受けたとか、そういう展開だろ。

「なんで凪の母親が?」

「正確な原因はわからないんです。何らかの事故死だと言う話とは聞いています。凪もあまり話したがらなくて。少なくても親友やその家族から何か危害を加えられたということはなかったそうなんです。むしろ親友の父親は左遷先で実績を積み重ね数年で会社に戻ってきた。できた人だったんですね。そして得たポジションは”常務席”。」

「わぁ~…」大どんでん返しってやつですか。

「凪の父親は横暴さが社内でも噂になり始め降格。プライドが高かった父親はそのまま会社を辞めてお酒にばかり飲むようになったみたいです。母親の死もそれと関係があったと思われますが、それが凪が高校2年の時です。それから施設で暮らしています。最初はそれこそ全く外に出ない”ひきこもり”状態でしたけどね。」

人生は人それぞれだが、こういう話を聞くと僕は平凡な日々を過ごしてきたのかもしれない。弁当屋で疲弊していた3年間も大したことがなかったように感じる。あのきれいな横顔にそんな過去があったなんて。

「僕には想像できない人生です。でも、少なからず凪ちゃんはここに来られてよかったと思います。」

「えっ?」と真希は少し驚いて、そして少し安心したような表情を見せた。研究者らしくずっと崩れなかった表情が、ほんの少しほころんだ。

「どうしてそう思うの?」

「だって凪ちゃんは一人であんなに遠い場所にも行けて、初対面の僕とも笑顔で話すことができています。この場所があったからこそ変われたんだと思います。」

真希は少し考え、苦笑いをしながら話した。

「そうだと嬉しいんだけどね。確かに一人で外に出られるようになった。でも、凪はまだ他人と接するのは苦手なままなんです。施設の仲間にも職員にも、私にすら自分から話すことはほとんどありません。まして、知らない他人には近づくだけでも怯えることがあります。」

「そんな。でも僕には気さくに話してくれましたよ。だって…」

「凛ちゃん?」

急に真希が割り込んできて驚いた。

「あの時は驚きました。茅野さんが凪を助けてくださった日、自分から私に電話をしてきたことにも驚きましたが、その後も凜ちゃん凜ちゃんとあなたのことを嬉しそうに話すんです。凪とはもう2年以上一緒に居ますが、あんな姿を見たのは初めてでした。…いや、一度あったかもしれませんね。とにかく本当に珍しいことです。」

「そうだったんですか…。僕は舐められたのかな、ははっ」

ちょっと複雑な心境だったが、心を開いてくれたなら嬉しいことではある。

「今日、茅野さんをお呼びしたのはお礼をお伝えしたかったのと、…私にお力を貸してほしかったからです。」

真希は真面目な表情になってまっすぐ僕を見つめてそう言った。

「力を貸す?僕がですか?」

「はい、凪にとってあなたは救世主になるかもしれません。もちろんお礼もいたします。」

救世主?僕が?多少、心を開いてくれたからと言って僕なんかに何ができるんだ。無責任なことなどできない。深い傷を負っている少女を救うなどおこがましい。

「僕なんかには何もできませんよ。仕事もありますし、夏目さんみたいに優秀な方とは違う。」

真希の表情が暗くなるのは感じたが、これは事実だ。ずっと程よく無難にやってきた人間だ。そんなやつが人助けなんてできるはずもない。

「凜ちゃん…?」

ドアから声がして振り返ると、凪が遠慮気味にドアを開けて立っていた。

「凪ちゃん…」

もう会うことはないと思っていた凪の姿に不思議な気分になる。どこか惹かれていた彼女と波乱の人生を負った彼女が重なり何と声を掛けたら良いかわからなかった。

「凪、こっちにおいで。」

真希が凪を招き入れる。僕は丁寧にドアを閉めて入ってくる姿をじっと見つめる。

「ほら凪、頑張って探したんだから。さぁ茅野さんに言うことあるでしょ?」

真希は微笑みながら小さな子供に話しかけるかもように凪に促す。頑張って探してくれたのかは疑問だったが、凪は僕に会いたいと思ってくれていたのだろうか?

「凜ちゃん、あの時は本当にありがとうございました。もう会えないと思っていたから凄く嬉しいです。」

19歳の女の子の表裏のないストレートな言葉に耳が熱くなるのを感じた。そして一瞬で僕の懐疑を払拭した彼女に思わず目を逸らしてしまう。真希はしてやったりという表情で僕を見てにやけている。どっちがひきこもりかわかったものじゃない。精一杯冷静に言葉を出す。

「凪ちゃん、元気そうでよかった。身体はもう大丈夫?」

「はい、あの後1週間くらい筋肉痛が治らなかったです。」

無邪気な表情で笑いながらそう話す凪はやはりひきこもりには見えなかった。これは僕だから見せてくれる表情なのだろうか。本当にそうなら僕は凪にとって少しは救いになるのかもしれない。そんなことを考えながらしばらく話しをして施設を後にした。